丁寧な大騒ぎ

想いが今 クリアになっていく

友人との対話

 向かい合わせになって友人とおしゃべりをするのはとても有意義でとても幸せだと感じることが続いたので、その話。今日書くのは2例だけだけど、余力があったらあと2例追加で書きます。

 

 

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4月某日

 友人Yとのランチ後に訪れた喫茶店で、彼女の近況を聞く(ランチは食べるのにお互い必死だったので、あまり会話らしい会話をしていなかったのだ)。彼女は最近試したというある働き方を教えてくれた。曰く、毎日半日だけ働いてみたのだという。それも会社でも自宅でもスタバでもサテライトオフィスでもなく、とある地方都市にて。いわゆるワーケーションというやつだ。リモートワークが主流となってきている中で、リモートワークが推奨されている会社に彼女が勤めているとはいえ、実際にその働き方をした人から感想を聞いたのは初めてだった。

 

 ワーケーション申請でも出したのかと思ったが、そうではなかった。たまたま仕事量が多くない時期だったこともあって「単に毎日半休とっている人になっているだけだよ」と笑っていた。なるほど新しいし、おもしろい。行ってみたかった町に平日に行けたことを彼女は喜んでいた。そして「こういうお店好きだと思うんだけど」と家具屋の店内を写した一枚の写真を携帯の画面に表示させた。特に彼女と家具や雑貨の話をしたこともなかったので驚いた。しいて言うならその都市とは別の町の(地理的感覚がわからないが同じ県内の)ある雑貨屋に行ってみたいという話で一回盛り上がったことがあったことと、わたしがお気に入りの椅子の写真をインスタグラムに載せたことがあるというくらいだ。すごい。その家具屋を訪れたときに思ったのか、わたしと会う直前に話をしようと思いついたのかはわからないは知る由もないが、ただただ嬉しかった。誰かが日々の暮らしの中でわたしを想像したという事実をその誰かから知らされるとき、嬉しくて、あんまりにも嬉しくて、わたしはその事実をあたかも赤ん坊が離さない毛布のように握りしめて心の糧にする。

 

 そして彼女との会話で一番面白かったのは、上述のワーケーションとは別に普段の在宅勤務時の朝の過ごし方を教えてもらったときのこと。筋トレをして、さらにそのあとでオンラインの英会話レッスンを受けるのだそうだ。それを「意識高いなって思うんだけど」と前置きして、でもけして自虐的ではなく教えてくれた(自虐的な人というのは、相手の反応がどういったものであれ、というよりは相手から返ってくる反応をあまりよくないものだとはなから決めつけて自身を鼻で笑い、ありとあらゆる神経を集中させまるで最適なフォローをするように自虐を言い放つ隙を狙っているものだ!残念なことにわたしは経験談からわかる)。意識高いなって思うんだけど、わたし。意識高いなって思うんだけど、これをやっているよ。意識高いなって思うんだけど、やりたいことだから。意識高いなって思うんだけど、やってるんだ……。

 

 実際はこんなリフレインの効いた言い回しを彼女はしていないことだけは念のため補足を入れる。そうだね、確かに意識高いなって思われそうなことだけど、かっこいいよ。意識高い。この「意識高い」は見下すときに使われる意味合いとは違うってこと、伝わるかなあ。自分に必要でやりたいことを見極め、選択し、実践し、それを続けようと努力できるというレベルが高くって、それがすごいと感じるということ。大企業に勤め、その前は偏差値の高い大学に進学し、留学もし、知識量も豊富で、インターネットの大海原で出会わなければリアルでは出会うことのなかった10数年来の友人は、いつだってわたしから見たら「なんかすごい頭のいいひと」なのだが、意識高いことやってるなと自分で分かっていながらもそれを続け、もしかしたら意識高いことをやっていると自覚することそのものが彼女を成長させ支えているのかもしれない。「まあ寝坊して時間に間に合わないこともあるんだけどね~」あるんだ。

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(手書きの伝票があまりにもお洒落だった)

 

 

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5月某日

 こちらも久しぶりに会う、別の友人Yと。この日は朝から完璧だった。こんなに余裕をもって家を出ることがあるのかというくらい余裕をもって家を出ることができた。忘れ物もしなかったし、駅まで走ることもなかった。元々入っていた用事も無事済ませることができたし、午前のうちにアイロン掛けまで終えていたし、マニキュアも塗りなおせたし(とっておきの紫のキラキラ)、彼女に渡す用のディスクにはダビングをしたし、彼女のほうが先にお目当てのカフェにつくことができそうということで並んでもらい待たせてしまったこと以外は本当に完璧だった。もっと時を戻して考えるならば、朝起きた時刻は彼女の誕生日の数字だったからもう彼女に会うために用意された日だと思った。

 

 久しぶりに会う彼女はこれまでとは異なるヘアスタイルで、とっても新鮮だった。いつもはかわいいオーラだけれど今はちょっと大人っぽくてすてき!(注:彼女のほうが年上)。髪型を変えたのは少し前のことだそうで、そりゃあ会っていない間に変わることなんてたくさんあるよなと思いつつも、新しい彼女を見れたことのほうが喜びは大きいのでこんなのはさみしいにカウントなんてされやしない。おまけに褒められて喜んでいる彼女も見れたことだしとてもよい。

 

 お目当てのカフェは常に大行列を成していて、インスタグラムに店名や町名とともにタグ付けされた写真にはそのカフェの名物のスイーツばかりが写っていた。わたしたちはそれを食べてみたくて、甘すぎるかもしれないという一抹の不安を抱えながらもオーダーをし、運ばれてくるのを待った。出来立てをサーブするようなスイーツでもないのにかなり待たされたので、わたしは何度もお水を飲んでいた。初デートで緊張する男子といい勝負だと思う。よく知らないけど。

 

 待たされたとは言うものの、その時間でたっぷりおしゃべりできたから本当のところは大したことじゃない。彼女がこれから観劇しにゆくその作品はわたしも大好きなのだけど、ある事情でわたしは暫く触れるのを避けていた。このある事情というのはただのわたしの身勝手な理由によるもので、まあ何かを避けようとするときの人の感情なんてすべて身勝手なものでしかないのだけれど、人に直接伝えるには或いはSNSで書くことは些か抵抗があり、事実わたしは数ヶ月その作品について無言を貫いていた。誰にも共感してもらえないだろうと思うたびに苦しくなってはいたけれど、醜い感情でもあったから、誰かを傷つけるかもしれないならそのままでいいと思っていた。何様なんだろう。

 

 けれど過去の観劇体験や考察やそれらから得られる高ぶる感情というのはけして噓偽りのないもので忘れたくない大好きなものだったから、彼女との会話で自然と話題にでき、そして過去はもちろん今感じていることについての話もするりとできてしまった。一人で悶々といやだいやだと言って閉じこもっていたのに。誰かに、それも今回のラッキーな事例でいえば話を理解してもらえる大好きな友人に、そうした感情ごと言葉に乗せて受け止めてもらえるというのはなんと幸せなことなんだろう。ただし自身の性格上、最初から感情の整理や分析などもせずに相手にぶつけていたら後で後悔していたはずなので、ある程度悩んでから話せたのが功を奏したのかもしれない。何はともあれよかった。彼女と話せてすっかり心が軽くなってわたしはツイッターを再開したのだった。