丁寧な大騒ぎ

想いが今 クリアになっていく

Nobody's perfect

 いつもの如く長いブログになりそうだ。結論から先に言おう、残念ながら今回は『SHOW BOY』さいこ~~~!たのしかった~~~!の類のブログではない。わたしが『SHOW BOY』を観劇して感じたことを滔々と語るだけのブログである。

 

 

【1】

 観劇時、その世界観に入り込んで登場人物に共感したり心情を想像したりすることがよくある。それは読書をする時も同じで、感受性が豊か(ときに度を越えるほど)であることに起因すると自分では分析している。他にも役から離れてその演者自身の批評や称賛をすること――踊りがすてきだとか聞き取りやすい声だとか――もよくある。

 一方で、その作品が訴えるテーマを自身に落とし込むことがあまり得意ではない。これは、たとえば主人公がとった行動から「自分だったら……」と考えることがないというわけではなく、「この作品からはこういうことを学んだ。今後生きる上で参考にしたい」「この作品で感じ取ったこれこれこういう大切さを、わたしも理解できる人間になりたい」といった捉え方をすることが少ないということである。何かにつけて考察をすることは大好きなはずなのに、観劇中はおろか、観劇後でも滅多にしない考え方だ。これは苦手というか、単にそこにまで行きつかないのだ。

 (こんな感じで生きているという紹介。紹介になっている?)

https://twitter.com/soba_ja_nai/status/1234851705012899840?s=20

 

 正直『SHOW BOY』の再演については、2019年の初演以降、周りの熱意にも感化され「わたしもぜひまた観たい!」と思っていたものの「"観たい!"と口にすること」である程度満たされていたのかもしれないと今になって思う。わたしの周りには初演を観ている人も多く、その人たちは『SHOW BOY』が持つ特別な魅力に惹きつけられたまま、あるいは2019年に観劇が叶わなかった人はその悔しさから、皆一様に再演を希望していた(あとサントラとTシャツの販売)。

 

 ※先に断っておきますが、この文章を読んでいる人の中にはここでいう「皆」に含まれる人がいると思います。その人たちに向けてわたしは「あなたたちのせいで~」だとか「あなたたちについていけなくて~」だとかいう愚痴を吐きたいわけではないので、絶対に必要以上に行間を読み取ろうとはせずにいてください。わたしのせいで疲れないでください。そんなの申し訳ないので。この時点で無理、となったひとはページを閉じてください。あまり口調が柔らかくないので書くのを躊躇ったのですが、1ヶ月弱迷って、それでもどうしても「書いたら少しは消化というか咀嚼できるのではないか?」という自分への期待が捨てられず筆を執った次第です。最初にそれは伝えさせてください。

 

 

【2】

 『SHOW BOY』を最初に観た日、こんなにキラキラしてワクワクして観終わるのが惜しいような舞台ってない!たのしい!ふぉ~ゆ~のことをもっと好きになっちゃう!豪華!よく分からないけど構成すごい!どうなってるんだ!SHOCKっぽいところがある(階段落ちはしないけど)!といった感情に包まれた。これらは嘘偽りない感情で、クラクラしながらシアタークリエを出たあの日のことをしっかり覚えている。あとこしおかさんにやられてハイになった快感とか。

 

 ただ記憶というのは、多くの人が実感しているように、哀しいことに努力をしないと消えていく。努力をする前に消えていくこともある。数年前の舞台のことを今でも話すわたしがいるように、その舞台の好きなシーンを挙げるわたしがいるように、『SHOW BOY』をずっと覚えていられる人たちがいて、そしてずっと好きなことを語っているというだけの話で、わたしにそれができぬからといって何も比較して落ち込む必要などない。

 

 ...…ということを理解しているつもりでも落ち込んだ(SHOCKでも何度も何度も経験して何度も立ち直って何度も落ち込んで、この一連の流れはたいして意味がないことも知っていた。だって誰かの記憶や意見と交わらなくたって、誰かと議論を交わせなくたって、わたしの記憶や意見はわたしのものだ)。『SHOW BOY』を観た日の高揚感は覚えていたし大切にしていたが、「『SHOW BOY』を観て(大なり小なり)人生が変わった」という言葉を見聞きするたび、ああ到底かなわないなと思った。

 (これは嘘じゃない。楽しい舞台を観た興奮が翌日にも続くことの幸福感といったら!でもこれは舞台の内容にインスピレーションを受けたわけではなく、舞台で得たエネルギーの話なのである。)

 

 (ちゃんと2019年の時点で悟っていたわたし、偉いというか成長していないというか)

 

 

【3】

 『SHOW BOY』の骨子たる数々の映画については今もなお不勉強であるが、『SHOW BOY』の中にちりばめられている幾多の名フレーズはその映画から引用されたものも見受けられる。また、ふぉ~ゆ~が演じることによって説得力が増し一層現実味を帯びるというのもわかる(半分は当て書きのようだし、それでなくても原作がある作品ではないから、そもそも彼らが演じることを念頭に置いて作られたと理解して差し支えないだろう)。「ねぇ誰が言ったんだ?始めるには遅すぎるって 30代のアイドル...…」のあたりはグッとくるものがあったが、それでも舞台の中で彼ら自身の境遇に想いを馳せることはわたしには難しく思えた。

 

 

 そんなわたしでも、再演の観劇では何かが変われるかもしれないと思っていた。意識を変えて臨めば得られる結果も変わってくるかもしれないと思ったし、もしそうなったら嬉しいなって思った(リカ?)。

 

 

【4】

 わたしが想像していたのは、『SHOW BOY』の登場人物たちの生き様を自身に投影させ、ギャンブラーおじさんよろしく「わたしも何かできる気がしてきたぞ!」と意気揚々とこれからの生き方などを考えて何かに挑戦するだとか、「もったいないことをわたしもしちゃおう!諦めて捨ててきた選択肢を拾い上げよう!」と見習いくんのように物事の見方を変えるだとか、マフィアみたいに純粋な心を取り戻そうとするだとか、そういうことだった。そういう、ポジティブな変化を期待していた。

 

 ストーリーを既に知っている状態で観る、Twitterで様々な人による具体的な感想に触れてから観る、というのは即ち"響くポイント"が分かっているということでもある。誰かと同じは嫌だなんていう100均で売っていそうなプライドがあるくせに、それでも「到底かなわないな」とあのとき思った憧れの人たちみたいに早くなりたかった。みんなと同じになりたかった。"響くポイント"で、"響くポイント"が、ちゃんとわたしにも響いてほしかった。初演と同じように煌めく舞台に心を奪われつつも、一方ではそんな失礼な希望を胸に、ソワソワ祈るようにストーリーを追いかけた(文字にしてみると大層ご立派な客である)。

 

 けれど、やっぱり"響くポイント"のシーンが来るとどうもダメだった。ストーリーはつつがなく進んでゆく。舞台の上には何の違和感も存在しない。初演の記憶が呼び起こされて楽しむわたしもいるのに、こんなのおかしい。わたしは響かない自身を客観視して白けてしまう。わたしがわたしを離脱してしまう感覚になるのだ。まったく、ちゃんと集中してほしい。目の前には楽しい舞台があるのに。何にも考えずに飛び込めば間違いなくワクワクを手に入れられるのに。もったいない。もったいないことしようよって、そういうことじゃないのよ!

 

 ※補足を入れるまでもないのだが、ここでは「なぜわたしは"響くポイント"が万人に響くと考えているのか」であったり「なぜわたしは"響くポイント"が自分にも響かないといけないと思っているのか」「響かないことは性格など個人の問題に帰結させるべきか」「"響くポイント"が演出家の狙いであったと仮定したときに、その意図通りに観ることのできない観客は演出家に喜ばれない存在となってしまうのか」であったり...…についての考察はしないものとする。それはまた別の議論になるので。ムズカシ〜。

 

 

【5】

 と、一人でやんややんやしているうちに突然その時は来た。支配人がディーバ(の代役をすることになったマフィア)に話しかける。「完璧な人なんていないの、Nobody's perfectよ」「Nobody's perfect!(※ここでにぱあっと笑う松崎さんはとんでもなくかわいい)」そして歌う...…。

 

 これは、平たく言えば「完璧な人なんていないのだから、失敗してもいいし完璧にやり遂げようと思わなくたっていいのよ。あなたなりに、あなたのできることを全うするだけで十分なの。だから立ち向かうことを恐れないで。わたしも完璧じゃないのよ」といった意味だろう。だからこそ、このシーンから「だれもが完璧じゃないのだから、自分も完璧じゃなくたって大丈夫。自分なりにベストを尽くそう!」「完璧に見える人も完璧じゃないのかもしれないよね」と感じ取るのがマジョリティだと思う。でもわたしは「えっ完璧じゃなくても受け入れられるんだ...…」と思ってしまった。

 

 わたしには「完璧な人なんていない」というセリフから引き出された「完璧じゃなくてもいいという励まし」が効かなかった。世の中は完璧じゃなくても受け入れてもらえる、ということをみんな理解している。だから完璧じゃなくてもいいと言うことができる人たちや思うことができる人たちがいる。完璧であることは重要視されない。完璧じゃなくても受け入れることができる人の方が心が広い、のかも。完璧であることは期待されていない、のかも。どんなに頑張っても完璧にはなれない、のかも(だから完璧じゃなくてもいいという理論が成立している?)……。頭を殴られたようだった。

 

 そして同時に少し前に起きた出来事を二つ思い出していた。一つは友人から受けた対応である。わたしだったら相手にこんな対応はしないのに、とわたしを丁寧に扱ってもらえないことに失望を感じたことがあった(※おそらく友人にそのつもりはない)。元来この考え方がひどく強い傾向にあり、自身が想定する最善の対応、或いはそれに近しい対応を相手からいただけないと必要以上に落ち込みやすいのだが、「自身が想定する最善の対応=完璧な対応をしてもらえないことは当たり前、してもらえなくたって問題ない」と思う必要があるのではないか……他人は変えられないのだからそれが普通の考え方でわたしの考え方はおかしい、捨てるべきでは……と考え込んだ。

 

 もう一つは仕事での出来事で、「○○さん(わたし)はAという仕事はいつもほぼ完璧にできているのに、Bという仕事になると途端に精度が下がるよね。苦手でしょう」といったことを直近で言われたことがあった。この指摘を受けたとき、たしかにBという仕事が苦手であるわたしは、Aよりは精度が下がるものの、わたしの中では尽くせるベストを尽くしていたつもりだった。つまり、完璧主義のわたしとしてはやや矛盾するようだが、見かけは完璧ではないものの最終的な完璧(=最善の状態)を目指すことにしていた。Bの業務をこなすには能力が足りないので、70%の状態であっても(早めの)完了報告をした方が良いと判断したのだった(30%はその人にフォローしてもらえることを期待していた)。

 でも現実はビターなので、70%ではダメなようだった。これはわたしのアプローチを変えればよいのかもしれないのだが、「ああ、わたしが完璧の追及をあきらめたところで、わたしへは完璧であることが求められ続けるんだな」とまず思ってしまったのだ。だから支配人に「完璧じゃなくてもいい」と言われ、素直に受け入れられなかった。

 

 

【6】

 そのようにわたしが戸惑っているうちに、誰からも「なんで完璧じゃなくても許してもらえるんだよ!」などといった野次が飛ぶこともなくNobody's perfectのシーンは過ぎていった。そして考え事をしすぎたせいなのか、舞台終盤は頭痛がひどくなってしまった。重い話のストレートプレイを観た後ならともかく、華やかなショーを観た後だというのに、まったく元気が出ず悲しい気持ちでシアタークリエを後にした。

 

 予想しないところで何かが刺さるかもしれない、という予想は当たったがあまり心地良いものではなかった。舞台観劇をするときには体の健康状態だけではなく、精神面での健康にも気を遣わないといけないなというのが今回の得た学びだった。舞台の力は在ると思っているが、それを受け取るための土台はこちらできちんと耕していかなくてはいけない。少なくとも、当日ノープランで動き回るといったことが苦手なわたしは、事前に準備しておくべきだったのかもしれない。せめて劇場に入る前に心を穏やかにしておくとか。ただ、もしもそれでも揺さぶられた、何かを思い起こさずにはいられなかったというのであれば、わたしもしっかり『SHOW BOY』が響いたということになるのかもしれない。みんなと同じにはなれなかったけれど。

 

 『SHOW BOY』の世界は非日常だけれど、『SHOW BOY』の世界に生きる登場人物たちにとっては日常の続きで、たまたまいろんなことが同時に起きていたためにあの日が特別に見えたのかもしれない。あの偶然の重なりを、彼らは知らない。きっとあの日の翌日、小さな変化はあってもまた日常が続いているはずで、それは観客であるわたしも同じなのかもしれない。『SHOW BOY』が伝えたかったことが「人生は簡単に変えられる」ということではなく、「人生は簡単に変わり続けていて、それに気づくかどうか、変わっていると見るかどうか」なのだとしたら、わたしの人生は変わったのだろう。今のわたしは、完璧主義をちょっと休みたくなっている。