丁寧な大騒ぎ

想いが今 クリアになっていく

おいしい生き方

あ、わたし最近優勝しているな、と思った。

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 実に変な日本語だと思う。「優勝した」ではなく「優勝している」だなんていうのは。コンクールでも試合でもなんでもいいが、トーナメントのように何度も戦うこと・勝つことがあったとしても、優勝したといえるのは最終試合に勝った場合のみのこと、つまりは一度きりだ。例えば地区大会で優勝し、さらに県大会でも優勝し、といったふうに何度も優勝できる環境にあったとしても、それは単にその括り(地区大会、県大会といったような)における結果を集めているだけであって、積み重ねているのではない。これは経験の積み重ねという意での否定ではなく、単純に物理的なイメージである。それなのに、まるで現在進行形のように「優勝している」と思ってしまったのだ。今回はそんな話をしたい。

 

 

 

 「優勝」は小学生でも書ける漢字だし、意味を教えるには上述のようにまわりくどい説明でなくてよい。ただし今回の「優勝」はネットスラングだ。良い、を強めた意味合いを持つ。

 

 いつ頃からこの言葉が流行っているのかはわからないが(声優ファン界隈が発祥との説を見かけた)、若者言葉とかネットスラングというのは往々にして"しれっと存在している""いつの間にか本来の意味とは異なっていてもそれなりにアイデンティティを確立している"ものだと思う。

 

 「合致」とか「良き」とか、そうそう「わかりみが深い」とか(「よくわかる」のようにはせず、形容詞を強調するために動詞を名詞化したこの手法はものすごい勢いで浸透していって正直驚いた!「すごく良い」という表現がダメなのではないことは理解できるが、「良さみがすごい」なんて使い方はもう思いついた者勝ちだ)とか、あとは「~~するしか(注:本来であればこのあとに「ない」と続くはずが文章はここで終わってしまう)」とか「〇〇しか勝たん」とか、わたしが使わないこれらの言い回しは、いつのまにか日常になじみ始めている。

 

 ただ、そうした流行り言葉を好まないと声を上げたところで、だからなんだと白い目で見られて終わる気もするので、使いたくないなら使わなければいいだけだと思うことにしている。こういうとき日本語学者だとか言語学を大学で専攻していたとか、そういう武器が欲しくなる。そんな中で、だ。そんなわたしが、といったほうが正確かもしれない。そんなわたしが「優勝している」と思ったのだ。流行り言葉へこれだけ穿った見方をしているわたしが、結局は、好きでインターネットの世界に身を置いている以上は慣れてしまうんだろうなあなどとどこまでも偉そうに思いながら。

 

 

 さてわたしが「優勝している」のはなにかというと、実は物ではない。うまく言えないけれど、現在のわたしの生活は優勝状態が続いている。今週が特に「優勝していた」。朝ごはん(写真は金曜の朝食。好きなものを冷蔵庫から出してきただけ)と朝時間が優勝していたおかげで、優勝する瞬間が多かった。仕事は特に優勝していないが……、帰宅してからの夜の時間も優勝していた。

 

 あまりにこれでは濫用しすぎで伝わらない。特に何かピンポイントで、それこそ「コンサートに行ってきた!デジチケだから入るまで座席がわからなかったんだけど、夢叶ってアリーナ最前!好きな曲から始まった!さらに自担からファンサをもらった!」くらいのピンポイントの何かがあったわけではない(いやこんなことがあったら確実に「優勝」だ)のだけど何かがあったのだ。

 

 美味しい朝ごはんをたくさん食べた。嬉しかった。美味しいお弁当もたくさん食べた。夜詰めるのも朝包むのも(時々時間に追われていたが)楽しかった。そんなだから午前の仕事はお昼に向かって頑張れた。美味しい飲み物を用意して職場に持って行った。仕事中、それを独り占めできることに大きな喜びを感じた。夜ごはんは朝ほどきれいにはお皿によそえないし栄養バランスだって完璧じゃないけど、冷蔵庫にあるもので作れてしまえるしお腹は満たされるし、メニューを考えながら午後の仕事をしたり電車に乗って帰ったりするのは悪くはない気分だった。

 

 料理の手順が明確になってテキパキ動けると全体の時間に余裕ができる。夜ずっと携帯を触ることもなかったし、だからといってテレビを見続けることもなかった。朝はもっと充実していて、起床予定時間より早くに目が覚めるから、布団の上で目を閉じたまま30分くらいごろごろする。足を伸ばしたり寝返りを打ったりしながらその日の動き、起きてからの段取りを考える。朝ごはんとか。現実逃避のためにもう一眠りする。

 

 床掃き掃除をしたり、拭き掃除までできたり、ゴミ出しをしたり、洗濯をしたり畳んだりアイロンを掛けたり。世の中の、家での朝仕事が充実しているひとたちに大きな憧れを抱いているわたしとしては上出来すぎて有料トッピングも無料になるサービスを受けられるくらいの気持ちだった。アラザンくらいなら掛け放題だった。

 

 

 誰かになにをやれと命じられたわけでもない。義務でも何でもない。同居している恋人も家族もそこにはいない。上司に報告することもないし監視カメラもついていないし誰にも怒られない生活。正真正銘、わたし一人だけのためのわたしのちょっとしたがんばりが、力強くわたしを押してくれた。そして支えてくれた。

 

 もちろん完璧人間ではないので毎日無駄なく動けているわけではないし、ダラダラしてしまうこともあった。それでも何だか先週よりは「よし、ここでやめて動こう!あれを済ませておこう!」と無理なく自身を奮い立たせることができた。少しの肯定だと思っていたけれど、コンスタントに肯定していたおかげで、すっかり生きるのが楽しくなった。

 

 

 

 新型ウイルスの感染拡大だけでなく天候による様々な問題が日本中で起き、重くて暗くて、季節柄とはいえじめじめしているこのご時世に生きるのが楽しいと言うことはお気楽すぎるかもしれないけれど、「優勝している」生活は間違いなく良いもので生きるのを楽しくさせる。

 

 わたしが楽しく生きることは誰の悪にもならないと信じているし、仮に誰かがわたしの現状を悪だと罵ったり見下したりしたとしても、それでわたしの生活が一変するわけでもないので、楽しいと思えるうちに楽しいと言ってしまいたい。生きるのが楽しいからとはいえ何をしていても楽しいということではないけれど、できるかぎり優勝していたい。

 

 

 「優勝している」ってきっと、誰かと比べてではなく、自信を満足させられる良い状態をキープできているってことだ。わたしの中で、うまく生きられない状態のわたしに勝ったんだ。この成功体験をわたしが覚えていれば、それからちゃんと状況に応じてアップデートしたりより順応させたりできれば、また優勝できる。わたしは今日もわたしとして生きるのが楽しくて忙しい。